LOGINリョウは走った。
雨に打たれながら、息も絶え絶えに、ただ前へ。背後からは執行部隊の足音とサイレンの音が追いかけてくる。
スマートフォンがポケットの中で震えた。カイトからのメッセージだ。
『座標を送る。そこで待て』
画面に表示された地図を見て、リョウは方向を変えた。湾岸地区。あの日、カイトと初めて出会った場所の近くだ。
足が重かった。禁断症状による脱力感が、全身を支配している。カイトと離れて五日。リョウの身体は既に、限界を超えていた。
それでも走った。
廃ビルの影に身を隠し、追跡者が過ぎるのを待った。雨音に紛れて、彼らの無線のやり取りが聞こえてくる。
「対象を見失った」
「周辺を封鎖しろ。逃がすな」
リョウは歯を食いしばった。
カイトの指定した座標は、ここから二キロ先。たった二キロ。しかし今のリョウには、途方もなく遠い距離だった。
携帯が再び震えた。今度は着信。カイトだ。
「リョウ」
「カイト……」
リョウの声は、掠れていた。
「動けません。身体が……」
「分かってる」
カイトの声が、苦しげに響いた。
「俺もだ。任務中、何度も能力が暴走した。君なしでは、もう制御できない」
「私も……あなたなしでは」
リョウは壁に背中を預けた。立っているのがやっとだった。
「五日間、地獄でした。頭が割れるように痛くて、吐き気が止まらなくて……」
「すまない」
カイトの声が、震えた。
「俺のせいだ。俺が君をこんな状態にした」
「違います」
リョウは否定した。
「これは、私たち二人の選択です。誰のせいでもありません」
遠くでサイレンの音が近づいてきた。リョウは息を潜めた。
「カイト、あとどれくらいで…&hellip
それから六ヶ月が経った。 リョウとカイトは、バンコクの郊外に小さなアパートを借りて暮らしていた。 二人とも、偽名を使って生活していた。カイトは英語教師として、リョウは翻訳の仕事をしていた。 収入は多くなかった。しかし、二人には十分だった。 朝は一緒に起き、朝食を作り、仕事に出かける。 夜は一緒に夕食を食べ、映画を見たり本を読んだり、ただ抱き合っていたりする。 普通の、平凡な生活。 しかしリョウにとって、それは何よりも幸せな日々だった。「リョウ、買い物に行くぞ」 ある日曜日の朝、カイトが声をかけた。「はい、今行きます」 リョウは部屋を出て、カイトと手を繋いだ。 アパートの外に出ると、熱帯の太陽が照りつけていた。しかし、もう慣れた。 二人は市場に向かった。 色とりどりの果物、新鮮な魚、香辛料の匂い。タイの市場は、いつも活気に満ちていた。「今日は何を作る?」 カイトが尋ねた。「トムヤムクンにしましょう」 リョウは答えた。「あなたの好物ですから」「ありがとう」 カイトは微笑んだ。 二人は材料を買い、アパートに戻った。 そして、一緒に料理をした。 カイトが野菜を切り、リョウがスープを作る。 途中、カイトがリョウの腰を抱いた。「カイト、料理中ですよ」「分かってる」 カイトはリョウの首筋にキスをした。「でも、我慢できない」 リョウは笑った。 こんな日常が、こんなにも愛おしいとは。 かつては想像もできなかった。 夕食の後、二人はベランダに出た。 夕焼けが、空を染めていた。 リョウはカイトの肩に頭を預けた。「カイト」「何だ?」「幸せです」 リョウは呟
屋上での対峙から一週間が経った。 その間に、世界は大きく変わり始めていた。 リョウとカイトの映像は、瞬く間に世界中に拡散された。ソーシャルメディアでは、彼らを支持する声が圧倒的多数になった。「#FreedomToLove(愛する自由を)」というハッシュタグがトレンド入りした。世界中の人々が、リョウとカイトの物語に共感した。 そして、政治も動いた。 野党議員たちが、センチネル保護法の見直しを要求し始めた。与党内部でも、改正を求める声が上がった。 センチネル管理局は、世論の圧力に屈しつつあった。 しかし、リョウとカイトへの指名手配は、まだ解除されていなかった。 二人は、三島の手配した安全な場所――海沿いの古い民家に身を隠していた。「長くはもたないな」 カイトが言った。 二人は海を見ながら、並んで座っていた。波の音が、静かに響いていた。「どういう意味ですか?」「いずれ、センチネル管理局は俺たちを捕まえようとする」 カイトは説明した。「世論がどうであれ、法律が変わるまでは、俺たちは犯罪者だ」「でも、朝霧さんは撤退しました」「あれは、カメラがあったからだ」 カイトは首を横に振った。「次は、メディアのいない場所で襲ってくる」 リョウは不安を感じた。「なら、どうすれば……」「国外に逃げるしかない」 カイトは決断した。「センチネル保護法が施行されていない国に」「でも、それでは一生、日本に戻れません」「それでもいい」 カイトはリョウの手を取った。「君と一緒なら、どこでも生きていける」 リョウは考えた。 国を捨てる。家族を、友人を、すべてを捨てて、カイトと二人だけで生きていく。 それは、恐ろしいことだった。 しかし同時に、魅力的でもあった。
記事は、予想以上の反響を呼んだ。 翌朝、三島の記事はインターネット上で爆発的に拡散された。 『愛は罪か――ボンディングしたセンチネルとガイドの告白』 記事には、リョウとカイトのインタビューが詳細に掲載されていた。二人の写真も公開された。 ソーシャルメディアは、瞬く間にこの話題で溢れた。 賛否両論。 「彼らは何も悪くない。愛し合う権利は誰にでもある」 「いや、法律は法律だ。センチネルは国家の財産なのだから、管理されるべきだ」 「ボンディングの危険性を無視するな。一人が死ねば二人とも死ぬんだぞ」 「それでも、強制的に引き離すのは人権侵害だ」 議論は白熱した。 そして、センチネル管理局も動いた。「氷堂カイトと御厨リョウを、国家反逆罪で指名手配する」 局長の記者会見が、全国に放送された。「彼らは、センチネル保護法に違反しただけでなく、機密情報を漏洩した。これは、重大な犯罪である」 指名手配。 リョウとカイトは、正式に犯罪者とされた。「予想通りだな」 カイトは冷静に言った。 二人は三島の手配した隠れ家――廃墟となったホテルの一室にいた。「でも、世論は私たちに同情的です」 リョウはノートパソコンの画面を見ていた。「ソーシャルメディアでは、私たちを支持する声が多数です」「それでも、法律は変わらない」 カイトが窓の外を見た。「世論がどうであれ、俺たちは指名手配犯だ。捕まれば、処刑される」 リョウは唇を噛んだ。 記事の公表は、諸刃の剣だった。世論は味方についたが、同時に居場所も知られてしまった。 その時、カイトの表情が変わった。「来る」「え?」「執行部隊だ」 カイトは立ち上がった。「朝霧も、一緒だ」 リョウは窓から外を覗いた。
テレポーテーションの感覚は、溺れるようだった。 リョウの意識は引き伸ばされ、圧縮され、そして再構成された。吐き気と眩暈が同時に襲ってきて、リョウは気を失いかけた。 しかしカイトの腕が、しっかりとリョウを抱きしめていた。 その温もりだけが、リョウを現実に繋ぎ止めていた。 どれくらいの時間が経ったのか分からない。 気がつくと、リョウは固い地面の上に倒れていた。「リョウ」 カイトの声が聞こえた。「大丈夫か」「ええ……なんとか」 リョウは身体を起こし、周囲を見回した。 そこは、見知らぬ場所だった。 森。鬱蒼とした木々に囲まれた、人里離れた場所。空気が冷たく、澄んでいた。「ここは、どこですか?」「北海道だ」 カイトが答えた。「山奥の、誰も来ない場所」 北海道。東京から、千キロ以上離れた場所。「そんなに遠くまで……」「限界だった」 カイトは息を切らしていた。額に汗が滲んでいた。「これ以上遠くには、飛べない」 リョウはカイトの身体を支えた。カイトの身体が、熱を持っていた。「能力を使いすぎましたね」「ああ……でも、これで少しは時間が稼げる」 カイトは木に背中を預けた。「朝霧が追跡してきても、ここまで来るには時間がかかる」「でも、いずれは見つかる」「そうだ」 カイトは認めた。「俺の能力は、使えば使うほど追跡が容易になる。逃げれば逃げるほど、痕跡を残してしまう」 リョウは考えた。 このままでは、いずれ捕まる。時間の問題でしかない。「なら……」「なら?」「戦いましょう」 リョウは言い切った。
気がつくと、リョウは見知らぬ場所にいた。 古い日本家屋。畳の部屋。障子から差し込む柔らかな光。「ここは……」「俺の、隠れ家だ」 カイトの声がして、リョウは振り向いた。カイトは窓の外を見ていた。「山の中。最寄りの町まで車で一時間。センチネル管理局も、ここの存在は知らない」 リョウは身体を起こした。全身の力が抜けていたが、カイトが近くにいるおかげで症状は治まっていた。「どうやって、こんな場所を……」「三年前、任務で訪れた時に見つけた」 カイトは振り返った。「いつか必要になるかもしれないと思って、秘密にしてきた」「いつか……って、まさかこんな日が来ると?」「ああ」 カイトは頷いた。「君と出会った時から、こうなることは分かっていた」 リョウは息を呑んだ。「つまり、あなたは最初から……」「逃亡することを、視野に入れていた」 カイトは認めた。「君をボンディングに導き、そして一緒に逃げる。それが、俺の計画だった」 リョウは何も言えなかった。 すべてが、カイトの計算の内だった。出会いも、調整の頻度の増加も、ボンディングへの誘導も。「怒っているか?」 カイトが尋ねた。「俺は君を騙していた。君の自由意志を奪い、俺に依存させた」 リョウは考えた。 怒るべきだろうか。自分は操られていたのだと、憤るべきだろうか。 しかし。「怒れません」 リョウは答えた。「なぜなら、私も同じことを望んでいたから」 カイトの目が、わずかに見開かれた。「最初は違いました」 リョウは続けた。「最初は、確かにあなたに触れることを嫌がっていました。でも、いつか
リョウは走った。 雨に打たれながら、息も絶え絶えに、ただ前へ。背後からは執行部隊の足音とサイレンの音が追いかけてくる。 スマートフォンがポケットの中で震えた。カイトからのメッセージだ。 『座標を送る。そこで待て』 画面に表示された地図を見て、リョウは方向を変えた。湾岸地区。あの日、カイトと初めて出会った場所の近くだ。 足が重かった。禁断症状による脱力感が、全身を支配している。カイトと離れて五日。リョウの身体は既に、限界を超えていた。 それでも走った。 廃ビルの影に身を隠し、追跡者が過ぎるのを待った。雨音に紛れて、彼らの無線のやり取りが聞こえてくる。「対象を見失った」「周辺を封鎖しろ。逃がすな」 リョウは歯を食いしばった。 カイトの指定した座標は、ここから二キロ先。たった二キロ。しかし今のリョウには、途方もなく遠い距離だった。 携帯が再び震えた。今度は着信。カイトだ。「リョウ」「カイト……」 リョウの声は、掠れていた。「動けません。身体が……」「分かってる」 カイトの声が、苦しげに響いた。「俺もだ。任務中、何度も能力が暴走した。君なしでは、もう制御できない」「私も……あなたなしでは」 リョウは壁に背中を預けた。立っているのがやっとだった。「五日間、地獄でした。頭が割れるように痛くて、吐き気が止まらなくて……」「すまない」 カイトの声が、震えた。「俺のせいだ。俺が君をこんな状態にした」「違います」 リョウは否定した。「これは、私たち二人の選択です。誰のせいでもありません」 遠くでサイレンの音が近づいてきた。リョウは息を潜めた。「カイト、あとどれくらいで…&hellip







